ココダケ晴レ。後ニ雨。

ほんとは雨が好き。

右手とポジティブ。左手とネガティブ。

最初に投稿するのがこれか...と思いつつも、記録にしたためる必要が私にあった。5年後くらいにまた見返すこととしたい。

私は自他ともに認める程のネガティブ思考と思っている。だから、この記事がネガティブバイアスによって書かれているという見方は忘れてはいけない。でも、私自身はポジティブ思考の人と会話すること自体は疲れるが苦痛ではない。(マッチョだなぁと感じることはあるが。) ただし、いわゆる「ポジティブの押し売り」には辟易することが多々ある。

さて、職場で少し面白い(個人的には面白くない)話を聞いた。ある部署が業務目標数値として「ネガティブ発言の件数を0にする」のだという。

大なり小なりポジ/ネガの程度はあれど、何故ここまでネガティブ思考は目の敵にされるのかを考えてみた。

職場の考えるポジティブ・ネガティブ思想

ポジティブ思考であることの良い点

  • 職場に良い影響を与える
  • 活発で若々しい印象を与える
  • すぐに行動に起こすことができる

ステレオタイプではあるけれど、まさにこんな認識を社内では持っているようだ。 そして、ネガティブ禁止令が発令された理由である点について。

ネガティブ思考であることの悪い点

  • 愚痴や不満ばっかりを吐き、周囲のモチベーションを下げる
  • 良い点を見つけようとせず否定的な意見ばかりをいう
  • コミュニケーションに活発に参加せず、集団の和を乱す

これまたステレオタイプであるけれど、こんな認識なのでないかと思う。ちなみに、何故比較した時にネガティブ思考のほうがやけに具体的かというと前述の通り、自分はネガティブ思考なので想像が容易なためだ。 ある意味ポジティブ思考の人に対してステレオタイプの見方しかできていないともいえる1

蔓延するポジティブ信仰

Amazon書籍で上位キープしてるような啓発書ではポジティブ思考こそが成功を導くというセンセーショナルな事例や見出しが並び、「成功者が実践している〇〇思考術」みたいなタイトルの書籍がたくさんある。

私自身はこれらの書籍について否定する気はないし、むしろお世話になっていたと思う。ポジティブ思考そのものは極めて有用で、成果につなげるために大いに利用すべきだ。 私が辟易したのがポジティブ思想が抽象化され、それがただのステレオ信仰として職場に広まってしまったということに尽きる

ポジティブ信仰に侵された人々

何故かはわからないけれど、ポジティブ信仰をする人々にとってネガティブ思考(いまのところネガティブ信仰は聞いたことがない)は教義に反するためどうしても許せない存在に見えるようだ。ネガティブ発言を発見すると嬉々として磔にして、弾圧しようとする。そして、ポジティブの素晴らしさを説いて回る。なんというか、マチズモに溢れている。

私が今まで出会った人の中で、ポジティブ思考といえる人は、どちらかといえばポジティブ/ネガティブ関係なく良好に付き合っていた人が多かった(そもそも気にならないようだ)ので、こういう教義の押しつけはなんとも言えない気持ちになる。

私の失敗談のひとつで、そこそこに長い友人付き合いをしているポジティブ信仰の人2に職場の悩み(業務負荷)を打ち明けたことがある。当時、かなりやられていたので本当の意味でネガティブ思考に陥っていた。 曰く、「すべては本人の捉え方ひとつであり、君が辛いと感じるのは君が辛いと感じたいからではないのか3」と小3時間にわたり教えを頂いた。 その結果どうなったかというと、道が開けたとか光が差したとかいうスピリチュアルな体験をするわけでもなく変わらぬ日々が続いた。

過度にポジティブに傾倒するとその人の抱えている課題(problem)ではなく、個人(personality)に問題がフォーカスされるということを図らずとも体験してしまったので、結構私の中では遺恨となってしまった。

ネガティブ思考であるということ

実のところ、本当にネガティブ思考(=信仰)である人はそうはいないと思う。ネガティブ思考(≠信仰)の人たちは目の前に提示された課題について病的ともいえる程徹底的に悲観して、危険要因を排除し最も安全かつ確実な選択肢を取ろうとする。この過程がポジティブ信仰の人には極めて異質に見えているのだ、と思う。

ポジティブな人とネガティブな人

前者の人はとても嗅覚に優れている人であり、目の前に問題があればその中で最良と思える選択肢を即座に見出し、行動する。危険要素についてはあえて考えない。なぜなら歩みが止まるからだ。 一方で、後者の人は堅実な人である。先述の通り、ネガティブな人はあらゆる危険要因を思考実験の末に排除し、どうしても排除できないリスクについては飲む。ただしその場合であってもリスクヘッジを怠ることはない。 裏を返せば、ポジティブな人はリスクの見積に失敗して致命的なミスを犯しうるだろうし、ネガティブな人は物事について常に否定的な観察をするようになり、連携を乱すことが多々あるだろうと思う。 ネガティブ派閥で「あの時、私はこのように危険性について助言したのに。それみたことか」という感想を持ったことが一度はあると思う。私はあります。しかし、これも逆に言えばネガティブの人が考えるやり方とポジティブな人が考えるやり方についてアプローチが違うだけで失敗するときはどっちも失敗する。事業的に早く、大きな失敗となるか、遅く、小さな失敗になるかでしかない。業務スキームとしては巧遅拙速のいずれを取るかは求められるタイミングによりけりでしかない。 結局のところ、自分は表で相手は裏というバイアスでしか評価しないのでこのような軋轢が生まれることになる4

どちらが職場にとって良いのか

成果主義に準ずれば、個人的にはどちらが良い悪いではなく、その人がどちらの思考に身を寄せることでパフォーマンスが出るか、で判断すればよく、「こうあらねばならない」と良し悪しを決めること自体が無意味のようにも思える。赤子に大人の服は着れないし、大人に赤子の服を着ることはまたできない。 ポジティブ思考最先端のアメリカだって、ドラッグの天国だ。ポジティブであらねばならないというポジティブによる強迫観念で逆に病んじゃってるんじゃないだろうか。 ポジティブの速さとネガティブの慎重さが組み合わさって最強にみえる。というポガティブ状態が評価されることを切に思う。

でもネガティブ思考の人には近づきたくない

現在のところ、ポジティブ(思考|信仰)がマジョリティで、ネガティブ思考がマイノリティである以上、少数派は大多数に屈服するしかない。これは現実であるので、ネガティブ思考大好きにとっては大変心苦しい限りではあるが、ひっそりと日陰者として生きていこう。(ここ最高にネガティブ思考)

時代の移り代わりでポジティブ/ネガティブの派閥が均衡すれば新しいダイバーシティ(ポガティブ)が誕生するかもしれない。現在でいえばリアリストが最も近いように感じる。 それまでは、ぶつぶつ言っているところが気味が悪いとは思うけれど、私たちはマイノリティな生き物なので、許せる範囲で寛大に見逃してほしい。 どうしても我慢ならないのであればお互いに距離を取ることを試してほしいと思う。

ネガティブだって楽しく仕事がしたい

よくある誤解だけれど、ネガティブ思考は四六時中ネガティブというわけではなく美味しいご飯を食べれば幸福に感じるし、趣味を楽しめばウェーイ化する人もいる。

こと仕事についていえば、「ネガティブ」と言われる状態は問題に直面した状況にあって意図的にネガティブ思考のスイッチを入れている状態に近い。

おそらくこうした「やる気スイッチ」的なものをポジティブ思考の人も同じものを持ち合わせていると思う。(意識して鼓舞したりとかね)

お互いに特性について理解し、排除ではなく寛容になればもっとやりやすくなると思う。良い意味で他人に無関心に。思考(思想)と宗教にはアンタッチャブルでいるほうがきっと平和。 でも、誰だって自分にとっての居心地の良い場所が欲しいわけだから、不快な要素は排除したい。当然だ。故に今後も状況は変わらないのだろう。(おそらくネガティブ派にとっては悪化する) それでもポジティブ信仰の教義押し売りだけは本当に勘弁してほしいところなのです。

昔は左利きだと不便だから、という理由で私を含めて幼少期に右利きに矯正された人もいるかと思われる。 いまは左利き用の器機が充実し、右/左利きであることでハンディギャップは随分となくなってきた。

いずれはポジ/ネガもそのようになることを祈りつつ。

あぁ、頑張ろう(精一杯のポジティブ要素)


  1. これが本筋

  2. 友人付き合いは続いている。ただし、この件で積極的に関わることを避けている。ありていに言えば私にとって不快に感じてしまった。

  3. この一節はアドラー心理学でよく使われている。本来はポジティブ/ネガティブ思考とは無縁だが、前後の流れが良くなかった。

  4. この記事のように。